2017年1月17日火曜日

摂津・安威城

安威城跡は茨木の安威2丁目付近にあります。
『大阪府全志』によると東西180m×南北270mの規模 の比高6mの丘城だったと云われています。

築城についての詳しい記録は残っていませんが、16世紀初めに摂津国守護細川氏が安威氏に安威地域の所領を安堵したと記録があることから、安威城は永正年間(1504~1521)に安威弥四郎が築いたのではないかと考えられています。

安威氏は鎌倉時代からの安威地域の土豪でした。なので、安威弥四郎が安威城を築く前から城域には簡素な居館があったのではないかと思われます。

城主の安威弥四郎は細川高国に仕えていました。しかし、高国が桂川原の戦いで大敗すると、敵方であった細川晴元に属し、晴元方の将であった三好長慶に仕えました。江口の戦いでも三好長慶の軍勢として安威弥四郎が出陣しています。

安威弥四郎の子 安威了佐は豊臣秀吉に仕え信頼も厚かったようで、天正14年(1586)に茨木城の代官となっています。この時に安威城は廃城されたと思われていました。しかし、昭和58年7月に発見された「安威氏系譜」に安威了佐の嫡男 安威勝宗が安威城城主であったと記されていました。安威勝宗は中川清秀の嫡男 中川秀成が岡藩に転封された時に共に岡藩へ移動しました。この時に、安威城は廃城となったと考えられます。

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さて、城跡探訪と参ろう。

①説明板と石碑(茨木市安威2-12-10)
内郭と外郭の東の境界線の道路沿いにあります。
ここ付近はかつて「城垣内」という地名であったらしい。

②伝・城内井戸
城内にあったと伝わる井戸。
民家の庭先にあります。
かつては石積の井戸だったとのこと。
井戸への経路は上のMapの→を参考にしてください。路地裏を通らないと行けませんでした。

③土塁
城跡の北東にある土塁。保存状況は良好。

④土塁
伝・城内井戸へ行く途中にある土塁。

安威城の土塁はほとんどが竹林に覆われているため
『竹林在るところに、土塁在り。』
と、言えるだろう。

上で紹介した土塁以外にも色んな所に在ります。ぜひ、探してみてください。

⑤鎌足公碑。
城跡とは関係はありませんが、城域にある石碑です。

実は、安威地域一帯はかつて藤原鎌足(中臣鎌足)の領地だったと云われています。安威城の北にある安威砦を築いたのも鎌足と。また、付近の高槻 阿武山には鎌足の古墳と云われるもの在ります。

どこまで本当かは分かりませんけどね。

では、今回はこの辺で。


2017年1月9日月曜日

河内・古河藩陣屋

古河藩は下総国(現在の茨城県古河市)にあった藩である。
詳しくはWikipediaを参照下さい。

その古河藩は遠く離れた摂津国・播磨国に1万2600石の飛地領を持っていました。その飛地領を統治するために安永9年(1780)に古河藩三代藩主 土井利厚が河内国平野郷に築いたのが古河藩陣屋です。

古河藩陣屋は明治維新で版籍奉還されるまで続きました。

版籍奉還後、陣屋跡は郷役場、警察署となり、現在は平野小学校となっています。

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平野小学校の正門前に石碑・説明板があります。校外にあるので、自由に見学できます。
(小学校前の石碑・説明板)

そして、平野小学校から数分の大念佛寺の南門は陣屋の移築門です。
(陣屋の移築門)

この移築門は陣屋廃止後も役場や警察署、小学校の正門として陣屋跡に残されていましたが、昭和時代に今の場所に移築されてきたそうです。





大和・西方院山城

西方院山城は奈良公園内の瑜伽山という小高い丘の上にある城跡。奈良公園に城跡がある事をあまり知られていない。マイナーな城跡ではあるが、遺構がしっかりと残っているので見応えがあります。


西方院山城の歴史は非常に短い。
 応仁の乱で古市氏が筒井氏を攻めるために文明11年(1479)に築城されました。同年9月29日に城は完成し、それと同時に古市氏の軍勢が入城しました。しかし、それから3日後の10月2日に筒井勢の襲撃で落城しました。なんと、築城して落城するまで3日間と超高速でした。


さて、城跡への登城口は奈良ホテル駐車場の脇にあります。登城口を示す案内板はありませんでした。
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登城口からは斜面を直登して右方向に進みます。すると、直ぐに堀切と土橋が出てきます。斜面は滑りやすいので、お気をつけください。
(堀切)


土橋を渡ると其所はもう主郭です。堀切より手前の駐車場側が二ノ丸、堀切より奥の土橋を渡った所の広い曲輪が主郭です。



主郭は土塁が囲んでいました。
(主郭の土塁。奥の塀は瑜加神社)

そして、そして!
主郭横には見事な二重横堀が残っていました!
(二重横堀を横から) 
(二重横堀の間の土塁の上にて)

この二重横堀が西方院山城の目玉遺構です。この二重横堀を見るために訪城する人がいるとかいないとか(笑)

ぜひ、皆様も実際に二重横堀を確認してみてはいかがでしょうか。

2017年1月6日金曜日

山城・山崎城

城跡は天下分け目の天王山の山頂付近に位置している。
城跡までの道のりは登山道で現在ハイキングコースとなっているので登りやすいが、斜面が急になっているところも多々あるので体力は消耗しやすい。

登山口は宝積寺境内の脇にあるが、道順を示す看板があるので分かりやすい。天王山山頂を目指して登る。登山口から城跡までは大体30分くらいかかる。

城跡までの途中には『禁門の変十七烈士の墓』や山崎合戦の石碑などもある。
(禁門の変十七烈士の墓)

(山崎合戦の石碑)

ここで山崎城の縄張図を出しておこう。この縄張図は現地説明板にあったものを私が編集したものである。
書き込まれた数字やアルファベットは今から掲載していく遺構の場所を分かりやすくするためのものである。訪城の際には参考にしていただけたらと思います。

さて、登山道を登っていくと酒解神社が現れる。其処を過ぎた辺りから城域である。

(酒解神社)


 ①酒解神社を越えてすぐのところに早速残存石垣が現れる。

②本丸跡に向かう途中の残存石垣。かなり低い位置にある。

③本丸跡虎口にも残存石垣が。結構崩れてしまっている。

④天守台跡の残存石垣。

⑤本丸跡の西側の曲輪の北西側切岸にある残存石垣。
個人的にはこの石垣が山崎城の石垣の中で一番好き。場所を知らないと中々見つけられません。私も結構探し回りました。

これらの他、縄張図で◎が示している場所にも石垣があるそうですが、未確認。また、本丸跡・天守台跡の切岸には所々に残存石垣と思われる石垣がありますが、残念ながらほとんど崩れてしまっている。かつては切岸全体を石垣が覆っていたのだろうなぁ~っと思いながら見ていました。

A 城跡の最北東端にある堀切。
これ、あまり知られていないんです。手前には土橋もある。

B 本丸跡近くの竪土塁。
草木が多くて写真ではわかりづらいですが。


a 天守台跡と本丸跡(奥)
天守台後が天王山山頂である。

(本丸跡にある説明板)

b 本丸跡西側にある曲輪。
かなり広い曲輪である。

c 井戸曲輪と井戸。

おおまかな遺構紹介は以上である。山崎城の歴史等についてはWikipediaのURLを貼っておく。