安威城跡は茨木の安威2丁目付近にあります。
『大阪府全志』によると東西180m×南北270mの規模 の比高6mの丘城だったと云われています。
築城についての詳しい記録は残っていませんが、16世紀初めに摂津国守護細川氏が安威氏に安威地域の所領を安堵したと記録があることから、安威城は永正年間(1504~1521)に安威弥四郎が築いたのではないかと考えられています。
安威氏は鎌倉時代からの安威地域の土豪でした。なので、安威弥四郎が安威城を築く前から城域には簡素な居館があったのではないかと思われます。
城主の安威弥四郎は細川高国に仕えていました。しかし、高国が桂川原の戦いで大敗すると、敵方であった細川晴元に属し、晴元方の将であった三好長慶に仕えました。江口の戦いでも三好長慶の軍勢として安威弥四郎が出陣しています。
安威弥四郎の子 安威了佐は豊臣秀吉に仕え信頼も厚かったようで、天正14年(1586)に茨木城の代官となっています。この時に安威城は廃城されたと思われていました。しかし、昭和58年7月に発見された「安威氏系譜」に安威了佐の嫡男 安威勝宗が安威城城主であったと記されていました。安威勝宗は中川清秀の嫡男 中川秀成が岡藩に転封された時に共に岡藩へ移動しました。この時に、安威城は廃城となったと考えられます。
『大阪府全志』によると東西180m×南北270mの規模 の比高6mの丘城だったと云われています。
築城についての詳しい記録は残っていませんが、16世紀初めに摂津国守護細川氏が安威氏に安威地域の所領を安堵したと記録があることから、安威城は永正年間(1504~1521)に安威弥四郎が築いたのではないかと考えられています。
安威氏は鎌倉時代からの安威地域の土豪でした。なので、安威弥四郎が安威城を築く前から城域には簡素な居館があったのではないかと思われます。
城主の安威弥四郎は細川高国に仕えていました。しかし、高国が桂川原の戦いで大敗すると、敵方であった細川晴元に属し、晴元方の将であった三好長慶に仕えました。江口の戦いでも三好長慶の軍勢として安威弥四郎が出陣しています。
安威弥四郎の子 安威了佐は豊臣秀吉に仕え信頼も厚かったようで、天正14年(1586)に茨木城の代官となっています。この時に安威城は廃城されたと思われていました。しかし、昭和58年7月に発見された「安威氏系譜」に安威了佐の嫡男 安威勝宗が安威城城主であったと記されていました。安威勝宗は中川清秀の嫡男 中川秀成が岡藩に転封された時に共に岡藩へ移動しました。この時に、安威城は廃城となったと考えられます。
*GoogleMapを編集使用*
さて、城跡探訪と参ろう。
①説明板と石碑(茨木市安威2-12-10)
内郭と外郭の東の境界線の道路沿いにあります。
ここ付近はかつて「城垣内」という地名であったらしい。
②伝・城内井戸
城内にあったと伝わる井戸。
民家の庭先にあります。
かつては石積の井戸だったとのこと。
井戸への経路は上のMapの→を参考にしてください。路地裏を通らないと行けませんでした。
③土塁
城跡の北東にある土塁。保存状況は良好。
④土塁
伝・城内井戸へ行く途中にある土塁。
安威城の土塁はほとんどが竹林に覆われているため
『竹林在るところに、土塁在り。』
と、言えるだろう。
上で紹介した土塁以外にも色んな所に在ります。ぜひ、探してみてください。
⑤鎌足公碑。
城跡とは関係はありませんが、城域にある石碑です。
実は、安威地域一帯はかつて藤原鎌足(中臣鎌足)の領地だったと云われています。安威城の北にある安威砦を築いたのも鎌足と。また、付近の高槻 阿武山には鎌足の古墳と云われるもの在ります。
どこまで本当かは分かりませんけどね。
では、今回はこの辺で。